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人間の脳は個体値があるか?


凡人はコラッタと一緒なのか

種族値、個体値、努力値

皆さんはポケモンをやっていますか。最近流行っているポケモンGOですが、あれはCPが強さを表すゲームではありません。
最近は公式で教えてくれますが、CP、ポケモンのレベル、HP、ほしのすなの必要数からポケモンの持つポテンシャル「個体値」が計算式でわかるようになっています。つまり従来の携帯ゲームのポケモンと同じように、「生まれながらにして能力差がある」という厳しい「生まれゲー」となっているのです。そしてコラッタは大変種族値が低いです。まあわかる。

でも我々は皆人間なので、種族値は一緒です。生まれながらにみんなミュウツーみたいなもんです。
では個体値は?

作品は出自が特別なのばっかり

某クエストの天空の生まれだったとか、サイヤ人だったとか、火影の息子だとかそういうの。

みんな薄々気がついている個体値の存在

一般世間ではこの個体値を「才能」と言い換えます。才能の有無です。
みなさん薄々気がついているのではないでしょうか。

人は生まれながらにして能力値に差があります。

この能力差を「そんなものは、ない」という新書や、「受け入れて、それでいいのだ」という新書、「才能とは努力のこと」という新書などなど、百花繚乱ですね。

本当は

もうはっきり言いましょう。あります。
あるじゃないですか。

世の中発達障害とか自閉症スペクトラムとかいろいろあるじゃないですか。
計算したくてもできない人、地図を読みたくても読めない人、文章を書きたくても書けない人。いろいろいるんです。脳がそもそも違うんです。
私もできないことが多い一人です。

でも、それがどうかしたのでしょうか。

天才になりたい?!

創作アカウントを運営している時に「才能ある人なんて死ねばいいのに」と言ってブロックされたことがあります。私に才能があるのかは全くどうでもいいので、置いておくとして、ここでわかったことがあります。天才になりたい人間というのは世の中たくさんいると。そうでなければ世に出回る天才やら努力やらの新書の数も需要と供給が合っていないことになりますね。需要があるのです。

もし自分が天才じゃなかったら

天才などいないというか?近づくために努力するか?いろいろあると思います。
でもここで私がわからないのは、「天才じゃないのはそんなにいけないこと?」ということです。

ギフテッドが運営するとかいう趣旨のサイトの人間がこんなこと言うとすげえ不遜に聞こえますが、私はできないことは本当にできないし、できない分野のが圧倒的に多いです。できない分野と尖ってる分野激しい私だからこそ個体値というものを顕著に自覚でき、そして長い間考えたテーマでもあるのです。なぜ自分にはできないのだろうか。努力では敵わないのだろうかと悩んだ時期もありました。

人間の努力値は255じゃない

ポケモンの努力値は255しかマックスで振れませんが、人間の努力値はもっと青天井です。
天才が思いつきでやってのけることも時間をかけてアプローチを間違えなければできる日は近づきます。天才が一瞬でやることを、そのアプローチでできるようになりたいかどうかは別としてです。
多くの人はここで「じゃあやりたくないなぁ」と思うのではないかと思うのです。

承認欲求が満たされない問題を天才のせいにしている

才能がないからやらないのならば、もともと好きじゃないのではないかと思うのです。
例えば音楽をやりたいとしたら、働きながらでも土日で、メンバーがいなかったらDTMでできます。才能とか関係なく、好きならできます。誰でもできます。一曲できます。
それでいいのではないかと思うのですね。(私の作った音楽はなかなか悲惨です。)
そこで天才だの才能だのの議論が持ち出されるのは、結局、自分の興味のある分野で誰かに承認してもらいたいという欲求があるからだと思うのです。
人から認められるには、一定の水準をクリアしていなければいけなくて、そのバーを越えるには能力が必要です。そのバーを越えられないなら、やりたくない、最初から可能性がないなら、やりたくない。こういうことではないでしょうか。そこで、そのバーをやすやす越えられる「天才」というものに関心が行くと。自分がその「天才」でないならやる意味がないと。

取るべき選択肢は

先ほども言いましたが、人間の努力値は255ではありません。そして個体値は絶対にあります。
そこからどういう選択をするかは自由です。
「えっ私の個体値低すぎ・・・」と思っても努力値を振り続けるのも自由なのです。
向いていないと諦めるのも自由なのです。
どの選択肢が優れているとか、賢いとかそういう話ではないと思うのです。自分がどうしたいか。自分が前提を理解した上で納得できる行動か。それが重要だと思うのです。

そもそも人からの承認を得ようとするから才能(天才)が気になる

人から承認されるには一定の水準を超えていた方が承認される可能性が上がりますが、そもそも人から承認をされる必要がありません。この辺はアドラー心理学とかそういう類の本が最近再三言っていると思うので深くは触れませんが、人は人から認められなくても芸術でも学問でも取り組むことは自由なのです。自分がやりたければやったらいいよ。

好きなことをしよう

何かをするのも自由。何もしないのも自由。
何が悪いとかは何もないのです。
アスペだって文章を書いていいし、言語優位のやつが数独をやったっていいのです。
何もやる気がなかったら何となく土日を寝て過ごすのも自由。
一番大切なのは、「自分がどうありたいか」、それを見直して、納得の伴った行動をとれるかだと思います。

でも

ですが、時に承認欲求とは別次元で、したいことが叶わないこともあるでしょう。(望む職種につけないなど)。そうした時に個体値は残酷です。
私はもうあらゆる向いていないことはすべて受け入れていますが・・・。
そういう時になんと言っていいかは私の人生ではまだ答えが出ていません。ただ、職業にしないでもできる活動ならば評価なんて気にしないで自由にやっていいと思います。本当に。誰も馬鹿にする権利なんてない。

どうでしょうか。あなたはしたいことがありますか?


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